片魚

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 星の話が好きだった。大きくてやさしい色の本を開いて、繰り返し繰り返し、飽きることなく読み続けていた。お気に入りなのは、魚のかたちをした星たち。秋の終わり、夜空がつめたく澄みはじめる頃に空高く上がる、ひとつがいの魚だ。ぶどう色の上でしずかにきらめく星の粒、それらを控えめに結ぶ線。ほのかに浮かび上がる絵。そのすべてにどうしようもなく惹かれて、どんなに本がぼろぼろになろうと捨てるなんて考えもしない、それくらいに好きだった。
 つながれた魚を永く永く空に刻む星の群れ。本から溢れ出しそうに語られる、楽しい名前の星、手に取りたくなるほどにさやかな渦巻き、すべてすべてがわたしを惹きつけたのだった。

 ひとつがいの魚は時折そうっと話しかけてきた。夜、布団に潜り込んだころを見計らって、くぷこぽとこまかな泡を吐きながら枕の両脇で跳ねる。光の中に銀色をふくませるとおった青色と、ちらちらつっぱい黄色と。――魚になりなよ。魚になりなよ。けれどもわたしはその度に断った。わたしにはつがいになってくれる魚がいないことを知っていたから。魚は二匹でなくてはならない、もう片側の魚、めぐる星の中でともに泳ぐ魚が。
 ――もうかたほうの、魚が、見つかるまで。少しだけ待って。
 いつか、いつか、いつか、ね。

 覚えている限り、わたしにはつがいというものがいなかった。親のつがいは互いで、兄のつがいは外にいた。外の人らのつがいはやはり外の人だった。どこを見てもすでにつがいのいる人ばかりのように思えたし、本やぬいぐるみではつがいになどなれなかった。
 外など目に入れず、本ばかり眺めていたそのときのわたしは、嘆きもしなかったのだが。

***

 色褪せた絵に指で触れる。黒ずんでしまった夜空に散らばる星は手垢に汚れて、それでもあの静けさを失ってはいなかった。
 変わってしまったのは。失われてしまったのは、わたしだ。つがいになってくれる魚は見つからず、青と黄の魚たちはいつしか現れなくなった。大人にならなければいけない腕は癒しようもなく乾いて、鱗のように醜くめくれあがって、脚は重く硬く、なのになまあたたかい。こんなわたしと星の話のどちらが善いかなんて比べるまでもない。わたしは静けさやきらめきのひとしずくも持たず、その元となりうるはずの魂は時の流れに削られ奪われるばかり、たもたれることすらかなわない。
 いま、魚になれたなら。ひとりの夢のなかでよくそう思う。魚になって、もう片側の魚といつまでも空を巡る。夢の中の夢、けれど願う気持ちはまこと。満たされるより他の道を見出しえない、炎のような渇きを抱いて生きているというのは、まじりけのない苦しみなのだから。たとえそれが他の人から見れば償いや養いのような善いものだったとしても。
 濁った空に星を探して、掌をさまよわせる。わたしには何が欠けているのだろう。何に渇いているのだろう。深い海のような夜空に、さざなみささめく小川のような星の帯に、魚になって身を浸せたなら、夏の果物のつゆより甘い水で、焼ける喉を潤せたなら、わたしの渇きは癒えるだろうか。

 ――『わたしの体におさめられた骨は、わたしのものではない。骨そのものがひとつの魂を持つ。わたしの血と肉にぴったりと包まれて生きてきた青白い骨は、言葉を紡ぐことはできないが、わたしとだけ想いを伝え合うことができる』
「……わたしの中に?」
「あなたの肉が骨を覆い守っている限り、決して外には触れません」
「そっか、じゃあ、大丈夫ね」
「はい。……お客様がお探しのバロックは、こちらでしょうか」
「間違いありません。ありがとう」

「――自分だけと一緒にいてくれる相手、ね……」

 バロック屋さんで貰った紙を抱えて帰り道を急ぐ。あの人がとってもいいことを教えてくれた。ずっとずっといないと思い続けていたわたしのつがいが、ずっとずっとわたしの中にいたのだと。わたしの骨はいつもわたしと共にいたのだ。
「ごめんね、気付かなくて」
 密やかに話しかけてみたら、ちょっとだけ笑ってくれた。嬉しい。
 わたしは幻を見る。濡れて白くなめらかな、けれども硬い骨、血と肉のゆりかごの中にまどろむ骨、幻だけれど嘘の話じゃない。こんなに美しい骨なら今すぐにでも肉をけてこの手に取りたいくらいだ。そんなことをしたらこの骨が誰かに取られてしまうかもしれないから、しないけれど。
「これでやっと」
 やっと、魚になれる。つがいと共に空へのぼり、わたしたちは結ばれて、空を運り星の河に身を浸し、清かな水を渇いた体じゅうに行き渡らせることができる。
 冷たい水はあらゆる苛立ちと悩みと痛みを洗い流していくだろう。それからどうするかは、わたしたちが決めること。
「……あ」
 気付けば空からあの青と黄の魚が泳ぎ下りてくるところだった。あの頃と少しも変わらない色、わたしは走り出す、髪を遊ぶ風は河の流れのようだ、足はもう止まらない、道などわからないのに足がひとりでに連れていくのだ、走る走る走る、冷たい風が心地よい、少しずつ土を踏みしめる覚えは消えていき、それなのに風はより速くなる、わたしはなにものだろう?
 体が浮いている、そう思ったとき、わたしの体は黄色にかがやく魚の姿に変わっていた。

(ちゃんといる?)
(いるよ)
(これからもふたりで、ね)
(あたりまえ)

 わたしたちは夜空を目指し、限りない遠くへんでいく。
 鱗がほろほろと剥がれ落ちて、そのひとつひとつが小さな魚になり、言われずとも行くべき先を知っているかのように皆が夜空を見上げた。

(みんな、つがいをみつけて、とんでおいで)

 わたしたちは夜空を目指す、あのきらめく河を目指す、互いに抱き合いながら。
 逆さの流れ星のように。

***

(その後、
 空を背に負う魚のような異形が見られるようになるのは、
 まだまだ先のこと。)
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